中村屋のボース


中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

昔話題になっていた本。
家に転がっていたので、読んでみた。


着眼点がいい。
インドの独立運動家が日本に滞在し、政府を利用しつつ、利用されても行く物語の中で、当時の運動家の苦悩が描き出されている。
戦前にアジア運動家が日本をねぐらにするのは孫文を始め何例も知られているが、インド系を扱うのは新鮮に感じた。
(また個人的には大川周明北一輝の名を目にして懐かしさを感じた。高校生の頃、竹内好橋川文三などを経由して読んで以来)


運動家や文壇、学者などを知識人と呼んだ場合、知識人と政治の関係は少なくとも戦前では関係が深く、またその方向性も複雑だったように思う。
例えば、政府が利用する事例もあるものの、逆に政府方針に反応し、追随する関係があったことも見逃せない。


政府が掲げたお題を具体化すべく、一方的に文壇や知識人が努力した例としては

  1. 「近代の超克」議論
  2. 建築における「帝冠様式

などが挙げられる。

アジア主義なる漠然とした思想も戦時国策に利用されたものの、そもそも反政府的活動が母体だし、思想としても構築しきれていない。
それを思想として整理しようとしたのが「近代の超克」議論だが、読んで見ると参加者が相当混乱していることが見て取れる。


これらの議論が政府に援用されることがなかったことからも、彼らも別に政府に利用された訳ではない。寧ろ、あまりに進みすぎる現実に、自身の立場を必死に探そうとしているようだ。
よりビックネームを挙げるなら西田幾多郎の「日本文化の問題」(全集12巻)を参照しても面白い。

近代の超克 (冨山房百科文庫 23)

近代の超克 (冨山房百科文庫 23)

「近代の超克」論 (講談社学術文庫)

「近代の超克」論 (講談社学術文庫)


帝冠様式についても同様の構造が存在している。

つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)

つくられた桂離宮神話 (講談社学術文庫)


恐らくこれらの運動は現状の再解釈と言う点で価値はあるが、リアクティブであるが故に現状を変化させるには至っていない。運動としては失敗だったのだろう。